コラム

「19番目の妻」ブリガム・ヤングを棄てる

前に「一気に語る多妻結婚」を書いたのち、「もう少しブリガム・ヤングの結婚状況も書けば良かったかな」と思い立ちました。ここではブリガムの多妻結婚について書いていきましょう。

極秘から公開の制度へ

ジョセフ・スミス(極秘裏の導入)
外部はもちろん、教団内の一般信者や、最初は妻のエマにすら隠していました。しかし、この「秘密主義」と「エマとの不和」が周囲の不信感を煽り、最終的な彼の暗殺(1844年)へとつながる大きな要因になってしまいました。

ブリガム・ヤング(堂々たる公表)
ヤングはユタ(ソルトレイク)へ移住後の1852年、神聖なる神の戒めとして多妻結婚を宣言し、堂々とこれを行うこととなりました。
連邦政府の手の届かない場所で秘密にする必要がなくなり、むしろ「神の民としての誇り」「神聖な義務」として社会全体で実践・推進しました。
これが多妻結婚の画期となります。

ジョセフとヤング、規模の違い

ジョセフ・スミス
妻の数は約33人〜34人前後と推定されています。多妻相手との間に生まれたとDNA鑑定などで判明している子供はほぼ皆無です。

ブリガム・ヤング
生涯で56人の女性と神殿での結び固めをし、16人の妻との間に57人の子供を設けました。
ソルトレイクシティに「ライオン・ハウス(Lion House)」や「ビーハイブ・ハウス(Beehive House)」といった巨大な邸宅を建てました。ビーハイブ・ハウスは謂わば公邸で、ここには正妻ランクの妻しか入れませんでした。ライオン・ハウスは謂わば大奥で、その他の妻や子供たちが暮らしていました。そこはまるで寄宿舎生活だったと言います。
ヤングの多妻結婚の相手の中にはジョセフ・スミスの妻9人以上が含まれていました。寄る辺ない身の上配慮したものですが、彼女たちとも結び固めを受けていたので、ジョセフの未亡人はヤングの妻でもありました。(そうとうにデタラメですね)。そのほか、いわゆる「未亡人」の救済で妻とした例は多いようです。(別に妻にしなくてもヤングの立場ならいくらでも救済の手立てはあったと思うのですが……)

アン・エリザ・ヤングの叛乱

ブリガム・ヤングが67歳のとき、24歳のアン・エリザ(Ann Eliza Young)を妻にしました。年の差は43歳です。彼女はブリガムの19番目の妻と自称しましたが諸説あり、27番目ともされています。これは大奥のように妻にもランクがあったからのようで、学者の結び固めによるカウントでは52番目ということになるようです。ブリガムはことのほか彼女が気に入ったようで、個別に別荘をあてがい、時折ライオン・ハウスに出向いてくるように命じました。なかなかの厚遇でした。

1873年、ヤングは経済的な事情からモルモン教徒が自宅に非モルモンの下宿人を受けることを許可しました。後に述べるようにヤングのケチぶりに困っていたアン・エリザも自宅(ブリガムからあてがわれた別荘)にメソジスト派のC.C.ストラットン牧師夫妻を下宿人としました。この夫妻の働きかけが、アン・エリザがヤングとモルモン教を離脱する決断を後押ししたと言われています。

1887年頃のアン・エリザ
1887年頃のアン・エリザ

モルモンの絶対者ブリガム・ヤングに対し、アン・エリザは1873年1月に離婚を申し立てます。これは世間を大いに賑わせました。
訴訟の中でアン・エリザは、夫(ブリガム・ヤング)が800万ドル相当の財産と月収4万ドル以上を所有していると主張しました。これに対しヤングは、所有財産は60万ドル未満、月収は6,000ドル未満だと反論し、支払額を減らそうとしたのでした。
当然ながらアン・エリザは1874年10月10日にモルモン教を破門されます。離婚自体は1875年1月に認められ、ヤングには月額500ドルの扶養料と3,000ドルの裁判費用を支払うよう命令が下りました。プライドの塊であるヤングはこれを拒否したため、法廷侮辱罪で有罪(1日の禁固刑と25ドルの罰金)というオマケまで貰うことになります。しかし後に、この結婚は重婚であり法的に無効であるという理由から、扶養料の支払いは取り消されました。

アメリカ巡回と『19番目の妻』出版

アン・エリザは離婚後、合衆国中を旅し、「一夫多妻制」をはじめブリガム・ヤングとモルモン教への反対演説を行って回りました。1874年4月14日には連邦議会でも証言し、その数か月後にはポーランド法が署名・発効され、ユタ準州の司法制度が再編成されたことで、一夫多妻主義者に対する連邦政府の訴追が容易になりました。

1876年、アン・エリザは『19番目の妻』という自伝兼告発本を出版しました。ここでの告白は単なるヤングへの悪口にとどまらず、「多妻制というシステムの非人道性と実態」を具体的に暴露したものでした。

女性たちが多妻結婚を受け入れるのは決して自発的な愛や喜びからではなく、「これを拒めば天国に行けない」「家族や両親に害が及ぶ」という精神的な脅迫や洗脳に近い教義の刷り込みによるものだと告白しました。
また、擁護派が語るような「平和で調和のとれた大ファミリー」という像を真っ向から否定しました。ヤングはお気に入りの妻(アメリア・フォルサム等)には贅沢をさせ、立派な部屋と服を与えた一方で、他の妻や子どもたちには極めて質素で乏しい生活しか与えなかったと述べています。妻たちの間には常に激しい嫉妬や憎しみ、そして深い孤独が渦巻いており、家庭内は冷ややかな対立状態にあったと書いています。

今夜も焼きそば

ゴタゴタで今夜もインスタントで済ませる「ヤング」

ヤングは大富豪であったにもかかわらずアン・エリザに対して非常にケチで、彼女が生活費や家具、暖房用の薪などを求めても冷淡に拒絶したといいます。
アン・エリザは、ブリガム・ヤングには宗教指導者としての慈愛に満ちた姿など欠片もなく、彼の王国において反対者を許さず、経済と政治と宗教を独裁的に支配する「冷酷な暴君」であるという素顔を暴き出しました。
また『19番目の妻』は一夫多妻問題のみならず、「ジョセフ・スミスの死」「血の贖罪」「マウンテンメドウズの大虐殺」についても言及されています。英語ではありますが、『19番目の妻』はネットで読むこともできます。興味のある方はどうぞ。著書「19番目の妻」(英語版ウィキソース)

結局、ブリガム・ヤングは一人の妻に棄てられてしまったわけです。ブリガム・ヤングにとってもモルモン教にとっても、この離婚は高くつきました。最後に、アン・エリザが語る出版の動機を記しておきましょう。

「モルモン教が実際にはどのようなものかを世界に印象づけたい。そして、肉体と魂の両方を束縛すると主張する点で、アフリカの奴隷制度よりも残酷な束縛制度に囚われている女性たちの哀れな状態を示したい」