一気に語る多妻結婚
モルモン教の最も神聖な教えは多妻結婚です。現在は行っていないと教団は言いますが、これはあくまでも停止しているだけであり、これが無くなることはあり得ないのです。
モルモン教徒は将来、モルモンの神とモルモンのキリストによりこの神聖無比の儀式が復興されることを信じて日々を過ごしているのです。
多妻結婚の始まり
モルモンの多妻結婚の始まりは当然ジョセフ・スミスからとなります。モルモン擁護者は、神の啓示によって多妻結婚は始まったと主張しますが、正しくありません。始まりはジョセフ・スミスの好色によるものです。
ジョセフは1830年代半ば、自宅のハウスメイドだった16~19歳のファニー・アルジャーと関係を持ちました。納屋での密会を目撃した妻エマは激怒し大喧嘩になりました。ジョセフはここで言い訳に神からの啓示を持ち出して「解決」し、このファニーを妻として「結び固めた」のが多妻結婚のはじまりとされます。これ以降女性と関係を持つときには「啓示があった」というのがジョセフの手口になったといわれます。
あわせて、近年は、ジョセフの多妻結婚の教義については当時の社会や宗教の背景も考慮すべきだと言われています。ピューリタンの入植から独立戦争、憲法成立を経て、アメリカ社会には自由が横溢し、ある意味緩みが生まれていました。宗教も厳格なピューリタリズムを脱却し、性に関しても独特なものが生まれていました。
例えば、オナイダ・コミュニティは特定の結婚関係を否定し、グループ全員が互いに配偶者となる「複雑結婚」を提唱・実践しました。その対極がシェーカー教徒で、男女の性交渉を完全に禁止する「絶対禁欲主義」を掲げ、男女別居の共同体を作りました。そして、ジョセフ・スミスに大きな影響を与えたのではないかと言われるのがコクラン派でした。メイン州を中心に活動した同派は、「霊的な結婚」と称して密かに複数の女性と関係を持つ一夫多妻制を実践していました。1830年代、初期の宣教師オーソン・ハイドらがメイン州で伝道した際、解散したコクラン派の元信者たちを大量に改宗させました。歴史家の間では、この改宗者たちを通じてコクラン派の「一夫多妻・霊的妻」のアイデアがジョセフ・スミスや初期幹部に流入したのではないかという説が唱えられているのです。つまり、多妻結婚を受け入れる素地がすでにあり、それにジョセフが預言者として乗っかったという説です。なにはともあれ、実際にジョセフ・スミスは多妻結婚をどのようにして教義としていったのでしょうか。
1831年頃、ジョセフ・スミスは多妻結婚に関する最初の啓示を受けたとされます。ジョセフ自身の手による記録は残されていませんが、多くの証言記録があります。
1841年、ジョセフ・スミスがルイザ・ビーマンと秘密裏に結婚します。
1843年7月12日、多妻結婚に関する啓示が文書化されます(『教義と聖約』第132章)。文書化されたとは言え、一般会員や外部には公表されず、多妻結婚は指導者層の間で秘密裏に行われていました。結局、ウィリアム・ローの新聞『ナブー・エキスポジター』で多妻結婚を暴露され、怒り狂ったジョセフは印刷所を襲撃し、自身の暗殺への道筋を作ってしまうのです。
ジョセフの後継者は多妻結婚がジョセフを破滅に追い込んだということをどうして考え、多妻結婚を止めようと思わなかったのでしょうか。私には不思議でなりません。
実際何人が実践し何人の妻がいたか?
ジョセフ・スミスには一体何人の妻がいたのでしょうか。歴史家や教会の公式見解は以下の通りです。
歴史研究者の調査(Todd Compton 氏など)では、裏付けのある妻の数は33人〜34人前後、より広義に記録を精査すると最大で40人以上(49人ほど説も)にのぼると推測されています。
2014年、モルモン教団は正式に論文(「カートランドとノーヴーにおける多妻結婚」)を公開し、ジョセフ・スミスに約30〜40人の妻がいたことを公に認めました。
妻たちの年齢は幅広い層にわたっていました(多くは20代〜30代ですが、最年少では14歳のヘレン・マー・キンボール(ヒーバー・C・キンボールの娘。即ちスペンサー・W・キンボールの大おば)も含まれます)。
多妻結婚の妻の内、約3分の1(10人以上)は、既に他の男性と結婚している女性(人妻)でした(これを「同世一妻多夫」的複婚とも呼びます)。多妻結婚とは即ち『乱婚』だったわけです。
実践していたのはモルモンでも上位の者たちで、男性は約29名〜30名とされています。
・十二使徒定額会の主要メンバー(ブリガム・ヤング、ヒーバー・C・キンボール、ウィラード・リチャーズ、ジョン・テイラー、ウィルフォード・ウッドラフ、パーリー・P・プラットなど)
・ノーヴーの最高評議会(High Council)の幹部
・秘密組織「50人評議会」のメンバーなど
皆、ジョセフの最側近層に限られていました。当時ノーヴーには約1万〜1万5千人のモルモン教徒が暮らしていましたが、多妻結婚に関わっていたのは男性約30名、女性を含めても100名〜150名程度に過ぎませんでした。一般会員の99%以上は存在すら知らないか、噂程度にしか認識していませんでした。だからこそ、新聞『ノーヴー・エキスポジター』で暴露された際に一般信者や周囲の住民に巨大な衝撃と激怒を与えました。そして逆上したジョセフ・スミスが印刷所を襲撃し逮捕投獄の後、暴徒に殺されたのは周知のところです。
法との攻防
ジョセフ・スミスの死後、ブリガム・ヤングはモルモン教の多数派を率い、西に向かいます。新天地ではもちろん多妻結婚の実行が期待されていました。
1847年:一行がソルトレイク・バレーに到着し、モルモン教徒らは独自の社会を作り始めます。
1852年8月29日:ソルトレイクシティの特別大会にて、使徒オルソン・プラットが説教を行い、多妻結婚の実践を初めて公式に世界へ公言します。教会の教義、律法として、多妻結婚は内外に周知されたのです。これに世論と連邦政府は猛反発し、「一夫多妻制の撲滅」に向けた法整備が次々と進められました。
1856年:共和党綱領。共和党が「一夫多妻制」と「奴隷制」を野蛮の双子と指弾し、根絶を掲げます。
1862年:モリル反重婚法。この法で米国領土内での重婚は違法化されますが、南北戦争の影響もあり、当初は実効性が薄くありました。
モルモン教団は多妻結婚は憲法の保証する信教の自由に違背するとして、憲法問題として対抗します。
1877年:ブリガム・ヤング死去。
1879年:レイノルズ対米国裁判。最高裁判所が「信仰の自由は自由だが、違法行為(重婚)の実行までは憲法で保護されない」と判断を示し、反重婚法が合憲とされます。モルモン教は法に従うことをせず、多妻結婚を継続します。
1882年:エドマンズ法。「重婚」だけでなく「不法同居」も罪と規定。モルモン教団は結婚ではなく、単に同居と言い張ったためです。また、多妻結婚を行っている者の投票権・被選挙権・陪審員資格を剥奪しました。多くの指導者が潜伏・投獄されました。
1886年:ジョン・テイラーへの啓示。潜伏していた三代目大管長、ジョン・テイラーはイエス・キリストとジョセフ・スミスの来訪を受け、「聖なる多妻結婚は絶対にやめてはならない」と命じられる。この啓示についての詳細は後述します。
1887年:エドマンズ・タッカー法。教会の法人格を解散させ、5万ドルを超える教会財産を没収。ユタでの女性参政権を廃止するなど、極めて強力な経済的・政治的打撃を与える厳しい法が制定されます。教団を丸裸にする法律でした。そして、ジョン・テイラーが潜伏先で死去します。就任以来死ぬまで潜伏生活の末の死でした。
1890年9月24日:公式の宣言。第四代目大管長ウィルフォード・ウッドラフは連邦政府からの更なる法的弾圧(財産没収や神殿没収の危機)を回避するため、「公式の宣言」を発表し多妻結婚は停止されました。しかし、合衆国外(カナダやメキシコ)で多妻結婚は行われ、国内でも秘密裏に行われていました。
1898年:ウィルフォード・ウッドラフ死去。
1904年:リード・スムート公聴会。「1890年以降も多妻婚が続いているのではないか」という疑惑は、ユタ州選出の上院議員リード・スムートの適格性を問うこととなります。彼を巡る公聴会でモルモン教自体が連邦政府から激しく追及されることになります。
第六代大管長ジョセフ・F・スミスは1904年4月、「第二次宣言」を発表します。ここでようやく、「今後、世界のいかなる場所であれ、多妻結婚を行った者は即座に破門にする」という厳しい厳罰規定が設けられ、モルモン主流派の多妻結婚は完全な終焉を迎えました。その後、多妻結婚はいわゆるFLDS(モルモン原理主義者)が継続していくことになります。
昔、アホなモルモン教徒が言いました。「法に従って、多妻結婚はもうやめている。過去のことをほじくるのはそれしか私たちを責める手立てがないからだ」と。そもそも、法に依らねば多妻結婚を止めない宗教に問題があると思うのですが……。「法に従った」と言っておいて、50年以上にわたる法(連邦政府)と争ったことを見ればモルモン教には順法精神がほとんどないということが明らかです。結局は教団の資産が全て没収されるという事態を恐れて屈服したというのが現実なのです。
1886年のジョン・テイラーの啓示
啓示宗教であるモルモン教にとっては啓示は絶対です。ここでは1886年のジョン・テイラーの啓示を述べておきましょう。
エドマンズ法などの執行が厳格化され、多妻結婚を行うモルモン教指導者は次々と逮捕、投獄されていました。第三代大管長ジョン・テイラーも逮捕を免れるため、地下潜伏生活を余儀なくされていました。
1886年9月27日に逃亡先のジョン・W・ウーリー宅でジョン・テイラーはイエス・キリストとジョセフ・スミスに見えます。そしてそこで受けた啓示は以下の通りでした。
Revelation given to President John Taylor, September 27, 1886
"My son John, you have asked me often to know my will concerning the law of celestial marriage.
Thus saith the Lord: All commandments which I give must be obeyed by those who will be entered into my kingdom, unless I revoke them or give them a special permission in connection therewith; but I specify my law that is celestial, which hath been given unto you: That it is eternal, and that I have not revoked it, nor will I revoke it, but I will fulfill all that I have promised unto you; for my law is everlasting and unchangeable.
And I say unto you, my son John, that if my people will obey my law, they shall be blessed, and I will be with them; but if they will not obey, I will hold them accountable for their doings.
And I say unto you, how can I strip myself of my power, or my glory, or my law, and give it unto another?
I say unto you, that my law cannot be revoked, neither can I alter that which hath gone out of my lips; but I will bring to pass all that I have said.
And I say unto you, that if my people will serve me, and obey my law, and keep my covenants, they shall be blessed, and no power shall prevail against them; but if they do not, they shall be judged according to their works."
【日本語訳】
1886年9月27日、ジョン・テイラー大管長に与えられた啓示
「我が子ジョンよ、あなたは日の栄えの婚姻の律法に関する我が御心を知りたいと、しばしば私に尋ねてきた。
主はこう言われる。私が与えるすべての戒めは、私がそれを取り消すか、あるいはそれに関して特別な許可を与えない限り、私の王国に入ろうとする者たちによって守られなければならない。しかし、あなた方に与えられた日の栄えの我が律法について、私は明確に述べる。それは永遠のものであり、私はそれを取り消しておらず、今後も取り消すことはない。私はあなた方に約束したすべてを果たそう。我が律法は永遠であり、不変だからである。
我が子ジョンよ、あなたに言う。もし我が民が我が律法に従うならば、彼らは祝福され、私は彼らとともにあろう。しかし、もし彼らが従わないならば、私は彼らの行いに対して責任を問うであろう。
あなたに言う、どうして私が自らの能力や栄光、あるいは自らの律法を脱ぎ捨てて、それを他者に与えることができようか。
あなたに言う、我が律法は撤回されることはなく、我が唇から出た言葉を私が変えることもできない。私は自らが語ったすべてを実現させるであろう。
あなたに言う、もし我が民が私に仕え、我が律法に従い、我が契約を守るならば、彼らは祝福され、いかなる力も彼らに打ち勝つことはできない。しかし、もし彼らがそうしないならば、彼らはその行に応じた裁きを受けるであろう。」
かくして、多妻結婚は永遠の律法である旨がイエス・キリスト本人から示されたのです。
もちろんこの啓示は教団としては正式に採用してはいませんが、存在を認め、原文を保管しています。
リード・スムート公聴会でのとどめ
公式の宣言の後も国外、あるいは隠密に多妻結婚を続けていたモルモン教に対して政治が動きました。リード・スムート公聴会についても少し詳しく紹介する必要があります。
1903年、ユタ州選出の連邦上院議員としてリード・スムート(Reed Smoot)が当選しました。彼は十二使徒定額会のメンバーでしたが多妻結婚は実施していませんでした。しかし、スムートに対して全米のプロテスタント諸団体や主要メディアが猛反発を起こしました。それは「1890年に多妻婚を廃止したと言いながら、秘密裏に継続している」「教会の高位指導者が上院議員になれば、政教分離に反し、神権政治を持ち込むことになる」として辞任を求めたのです。署名も数百万筆に及び、議会上院の「特権・選挙委員会」がスムートの議員資格の正当性を審査するための公聴会を開始しました。
この公聴会は1904–1906年の3年半に及び、スムート個人の資質問題を超えモルモン教という宗教そのものをアメリカ連邦議会(上院)の法廷に引きずり出し、徹底的に解剖した巨大な審問となったのです。
証人として多くの教団幹部が呼ばれました。その中には第六代教会大管長ジョセフ・F・スミスもいました。その他、歴史家、元信者など100名以上が召喚されました。
公衆の前でジョセフ・F・スミス大管長自身が1890年の宣言後も複数の妻と同居し、子供をもうけていたことが追及されました。彼は「法律違反であることは認識しているが、既存の家族(宣言前に結婚した妻たち)を見捨てることは道徳的にできない」と証言し、一定の理解を得ました。
最も衝撃的だったのは、1890年の宣言後も、使徒の一部(マティアス・F・カウリーやジョン・W・テイラーなど)が秘密裏に新たな多妻婚を執り行い、自らも新しい妻を迎えていた事実が明るみに出たことです。ジョン・W・テイラーは三代目大管長ジョン・テイラーの息子であり、父の受けた啓示に忠実だったのです。しかしこの後、彼はモルモン教を破門されてしまいます。もっとも死後復権され、死者の儀式を受けるというオチがありますが、それがまたモルモン教らしいずるさです。
1904年、モルモン教は「今後のいかなる多妻結婚も固く禁止し、違反者は破門する」という第二宣言を発表することとなりました。リード・スムート氏は議員資格を認められ、上院議員として長く務めることとなりました。
しかし、何よりも大切なことはこの公聴会を境に、モルモン教は「アメリカの異端・密教的集団」から「法を守る道徳的なキリスト教系の一宗派」として、アメリカ主流派社会へ順応していくことになったことです。
多妻結婚は過去のものではなく、未来のもの
もう一度さきのアホなモルモンに登場してもらいましょう。「多妻結婚は過去のこと」と言った御仁です。彼には以下のモルモン指導者の言葉を贈呈しましょう。
ブリガム・ヤング
「時が満ちるに及んで、主はこの律法(多妻結婚)を再び与えられ、それは世界中で実践されるようになるであろう。」(Journal of Discourses)
使徒オルソン・プラット
1890年のマニフェスト以前、「多妻結婚は神の永遠の律法であり、地上で一時的に阻止されたとしても、日の栄えの王国(天国)においては多妻結婚の原則が適用される」と繰り返し説きました。
ウィルフォード・ウッドラフ
1890年に地上の多妻婚中止を宣言したウッドラフ自身も、この宣言は「教会の滅亡を避けるための地上の実践の一時的停止」であり、神権の権能や天国における婚姻の原則そのものを無効にしたわけではないと説明しています。
モルモン教で多妻結婚は挫折し、停止していますがこの教義(律法)を捨てたわけではありません。多妻結婚は未来の律法なのです。