マウンテンメドウズの大虐殺を知っていますか?

モルモン教徒になるのなら、モルモン教徒でいたいなら、「多妻結婚」「血の贖罪」「マウンテンメドウズの大虐殺」を知った上でいられないと私は申し上げたい。そしてですね、これらを知った上でなおモルモンでいるなら、私はその人の人間性を疑うことを躊躇せず交わりを絶つでしょう。
ここでは「マウンテンメドウズの大虐殺」をお話ししておきましょう。前に話した「血の贖罪」とこの大虐殺とは不可分な関係にあります。また、「血の贖罪」がオウムのポアを思い出させるなら、「マウンテンメドウズの大虐殺」は某独裁国家を思い出させてくれることでしょう。

ユタと連邦政府との緊張、ユタ戦争へ

ユタ入植と連邦政府

1844年、創始者ジョセフ・スミスがイリノイ州カーセージにて殺害され、ノーブーを追われるように脱出したブリガム・ヤング率いるモルモン教ブリガム派(モルモン教団には多くの分派があり、ブリガム派は最有力ではありましたが唯一ではありませんでした)は、1847年7月、ヤング率いる先発隊がソルトレイクバレー(当時はメキシコ領)に到着し、入植が始まります。
ユタは当時メキシコの領土と言っても、名目のみで放置されていました。モルモン教徒にとっては独立した宗教国家を建設するにはうってつけの土地と思われたのですが、そのときアメリカとメキシコは領土問題で戦争(米墨戦争)をしていました。資金不足だったモルモン教団が合衆国の募兵に応じ、兵士が得た報酬をピンハネしたというエピソードは有名です。(また、一部のモルモンの兵士はそのままカリフォルニアに流れて行き、ゴールドラッシュに一役買ったことも有名です)
1848年2月、米墨戦争が合衆国の勝利に終わり、ソルトレイクバレーを含む広大な地域がメキシコからアメリカ合衆国へ割譲されます。アメリカ合衆国から離脱しモルモンの楽天地を築こうというヤングらの目論見は、わずか半年ほどで崩れてしまったのです。
1849年、転んでもただでは起きないヤングらは、独自に広大な領域(現在のユタ州に加えて、ネバダ州全域、アリゾナ州・コロラド州・ワイオミング州・アイダホ州の一部、さらにはカリフォルニア州の南半部を含む広大な「デザレット仮州(State of Deseret)」の設立を宣言し、合衆国への州昇格を申請しました。連邦政府からすれば、何かと問題の多い新興宗教団体がこれほど広大な領土に自給自足的な「神権国家」を設立しようとすることは到底受け入れがたいものでした。また当時、合衆国議会は「奴隷州(南部)」と「自由州(北部)」の勢力バランスをめぐって南北が激しく対立しており、極めて緊迫した時期でもありました。
あわせてそこに(1848〜1849年)、「ゴールドラッシュ」が発生し、カリフォルニアに一攫千金を夢見た人々が殺到。人口爆発のカリフォルニアは早々と「自由州」としての州昇格を求めました。これが「自由州が有利になる」と南部議員の大反発を招き、議会は空前の激論状態に陥ります。この南北対立を収めようとしたのが「1850年の協定(Compromise of 1850)」です。この政治的決着の一環として、カリフォルニアの州昇格を認める代わりに、デザレット仮州の申請は規模を大幅に削られ、奴隷制の有無を住民投票で決めることとした「ユタ準州」と「ニューメキシコ準州」に分割の上、格下げで認可されることになりました。
1850年、「デザレット州」の申請は却下され、規模を縮小した「ユタ準州(Utah Territory)」が設置されました。準州は州と違って、知事や裁判官などの主要閣僚をワシントンの合衆国大統領が任命して派遣することになります。連邦政府のモルモン教への不信は極めて強く、独自の神権統治を行うことを強く警戒していたからでした。しかし、モルモン教団側の反発も強く、やむなく初代知事はブリガム・ヤングとするという妥協案で当面の反発を抑えました。しかし、派遣された非モルモンの連邦官吏たちはモルモン教徒の排斥に遭い、満足に勤務もできず彼らが東部へ逃げ帰る「逃亡官吏問題」へと発展します。
1851年〜1856年、逃亡した官吏(連邦裁判官も含む)たちが「モルモンは連邦法を無視し、反逆的である」と報告したこと、あわせてモルモン教団もそれまで一応極秘にしていた「多妻結婚」の教義を公式に発表したことで、世間から「モルモン教は反社会的で野蛮であり、キリスト教的倫理に反する」と激しい非難が巻き起こります。共和党が結党大会で「多妻結婚と奴隷制」を“野蛮の双子”と名指しで批判するなど、連邦政府とモルモン教団の対立は決定的となりました。そのころ、ユタ内部でモルモン教団による「血の贖罪」の執行が多発していました。
1857年、ジェームズ・ブキャナン大統領は、ユタ準州が実質的に反乱状態にあると判断。ヤングを知事職から解任し、非モルモンの新知事アルフレッド・カミングを後任に指名しました。さらに新知事を護衛・擁立するため、約2,500名の連邦軍(ユタ遠征軍)の派遣を命令しました。これをブリガム・ヤングは連邦政府の軍事侵攻と受け止め、ユタ戦争(Utah War)が勃発します。
ソルトレイクはゴールドラッシュでのカリフォルニア移住者の通り道となっていたため、このとき結構潤っていました。移住者たちとの交易は、開拓に難渋していた入植者にとっては救いの神だったのです。同時にそれは、自給自足と閉ざされたモルモンの国を目指すヤングらには好ましくないものでした。
ここでヤングは穀物や物資の対外売却を禁止し、焦土作戦の準備を命じます。ソルトレイクに連邦軍を侵入させ、焦土の中でゲリラ戦を展開しようというのです。住民の生命など完全無視の恐怖の作戦です。一体、ヤングという男は実務的に凄い能力を発揮する反面、感情的になって暴走するという危険性がありました。
そんな緊迫した情勢の中、ユタ戦争のことも知らずユタに入ってきた大規模なキャラバンがありました。アーカンソー州からの移民一行(バッカー・ファンチャー隊)でした。彼らもカリフォルニアを目指しており、ソルトレイクで長旅の疲れを癒やし、物資や食料の補充と売買を考えていた普通の一団でした。

バッカー・ファンチャー隊(Baker-Fancher party)の難儀

ユタでの補給に期待していたバッカー・ファンチャー隊は、食料や物資の販売を拒否され途方に暮れます。仕方なしに前進したシーダーシティでは、地元民との口論や小競り合いまで発生してしまいます。連邦軍接近でパニック状態にあったモルモン教徒の間には「彼らは昔、ミズーリ州でモルモン教徒を迫害・殺害した暴徒の生き残りだ」「水源に毒を撒いた」などのデマが飛び交っていました。

ここでバッカー・ファンチャー隊がどのような一行だったか見ておきましょう。
1857年春から夏にアーカンソー州北西部を出発した、ジョン・T・バッカーやアレクサンダー・ファンチャーらが率いる複数の家族や知人・近隣住民が集まった一行で、男性、女性、子供を合わせて約120名〜140名。約40台の馬車、そして900頭以上にも及ぶ大量の牛や馬などの家畜を連れた、非常に裕福で装備の整った大規模キャラバンでした。一行はカリフォルニアでの新たな生活と農場開設を目指していました。

バッカー・ファンチャー隊の進路図

キャラバンは南ユタの景勝地「マウンテンメドウズ(山間の草原地帯)」でキャンプを張り、家畜に草を食べさせ長旅の疲労を癒やすことにしました。そして、そこで惨劇が起きるのです。

キャラバンの虐殺

包囲と奸計

キャラバン(バッカー・ファンチャー隊)がシーダーシティを通過し、マウンテンメドウズへ向かった直後、地元のモルモン教・民兵指導者(アイザック・C・ハイトやジョン・D・リーら)の間で議論が行われました。キャラバンを襲撃し、その豊かな物資を奪ってしまおうという企みでした。1857年9月6日に教団の評議会で議論され、一部の評議員は襲撃に反対しました。結果、ソルトレイクシティのブリガム・ヤングに指示を仰ぐこととなり、急使を派遣します。「彼の指示が届くまで手出しをしない」という決議を得て、急使が翌7日に送られました。急使(ジェームズ・ハスラム)は相当な速度でソルトレイクシティへ向かい、10日にはブリガム・ヤングにメッセージが伝えられました。ヤングは即座に「キャラバンには一切手を出さず、ユタを平和に通過させよ」との返信を持たせて、急使ハスラムを送り返しました。しかし、急使がシーダーシティに戻ったのは3日後の9月13日でした。そのとき既に虐殺は終わっていました。

ハイトやリーらの強硬派は評議会の決定を無視し、評議会の翌日9月7日早朝に襲撃を決行します。リーが巻き込んだ先住民(パイユート族)と、先住民に変装したモルモン民兵がキャラバンを攻撃しました。先住民の仕業に見せかければ評議会の決議にもヤングの意向にも拘束されないと考えたのです。しかし、経験豊富なキャラバン側は素早く馬車を円陣(ラガー)状に組み、穴を掘って強固な陣地を構築・反撃したため、攻撃は失敗に終わります。のみならず、先住民に白人のモルモン民兵が加わっていたことがキャラバン側に知られてしまいました。これによりモルモン側は抜き差しならぬ状況に追い込まれました。このことが連邦軍はおろかヤングに伝われば大変なことになるのが間違いなかったからです。焦ったモルモン側は作戦を変更し、5日間にわたる包囲戦による兵糧攻めに切り替えました。
この包囲戦でキャラバン側は水も食糧も尽き、銃弾も乏しくなりました。それを見計らってリーが白旗を掲げてキャラバンに接近し、交渉を仕掛けます。彼は「興奮した先住民たちからあなたがたを保護し、安全な街まで護衛する。ただし刺激しないよう武器をすべて置き、負傷者と子供を先行させなさい」と提案します。罠であることは明白でしたが、極限状態のキャラバンは一縷の望みにかけるしかありませんでした。彼らは武器を捨て、指示通り「負傷者・幼子(馬車)」「女性・年長の子供」「男性(歩行)」の3グループに分かれて一列で移動を開始しました。合図とともに、護衛のはずの民兵と物陰に潜んでいた先住民が一斉に襲いかかりました。丸腰の彼らのうち、男性は銃で、女性や子供はナイフと銃で惨殺されました。1857年9月11日、奇しくも9.11の日でした。

急使ハスラムがシーダーシティに到着したのは9月13日、全ては終わっていました。ハイトはメッセージを受けて「遅かった」と言い放ったそうです。使者が出発したとき既に襲撃を実行しておきながら、とんでもない言い草です。

マウンテンメドウズの大虐殺にブリガム・ヤングがどの程度関与していたのかは議論があります。史実としては以上のように「彼は虐殺の指示はしていない」と結論づけるのが正しいでしょう。彼の虐殺への関与の悪質さは、むしろこの後にあります。
また、ハイトやリーの行動からも分かるように、モルモン教団の閉鎖性は預言者を超える(無視する)跳ね返り分子を生むようになっていました。私は15年戦争時の関東軍と大本営の関係を思い起こしてしまいます。

その後と生存者

目撃証言ができないと判断された6歳以下の幼い子供17名のみが命を助けられ、地元のモルモン家庭に引き取られました。あくまでも先住民の犯行として隠し通すための皆殺しだったのです。
戦利品は豊富でした。
約900〜1,000頭の牛や馬などの家畜は、モルモン民兵幹部や地元のモルモン教徒たちの間で分けられ、彼らの農場や牧場に取り込まれました。衰えて価値の低い家畜は先住民に分けられました。
衣類、家具、道具、馬車などはシーダーシティにあるモルモン教の倉庫に運ばれ、その後モルモン教徒向けの競売で売りさばかれました。杜撰にも血痕がついたままの衣服や小物が紛れていたため、後にモルモン教団関与の証拠にもなりました。
現金や貴重品はリーやハイトなどの幹部で分配されました。
揉めたのは先住民の取り分でした。当初の約束では「略奪し放題」だったのですが、それはモルモン教徒が持ち去った残り物からでした。狡猾にも弾痕や血痕のついた衣類・物品は、先住民に罪をかぶせるためわざと残されました。

事件から約2〜3週間後の9月29日、ジョン・D・リーがソルトレイクシティを訪れ、ヤングに報告を行いました。彼は「殺戮を行ったのはパイユート族(先住民)のみであり、白人(モルモン教徒)は関与していない」と偽りの報告(虚偽報告)をし、ヤングはそれが虚偽であると気づきながらも承認しました。ユタ戦争の只中であったため、ヤングはリーらを裁かず連邦軍との戦いに集中することを選んだのです。預言者ヤングは正義ではなく、自らの安寧を選んだのでした。

和平、そして事件の解明へ

ユタ戦争終結

連邦軍とモルモン軍の大規模衝突は、ブキャナン大統領の提示した和平案をもって避けられました。ユタ戦争は終結したのですが、モルモン教団は新知事としてアルフレッド・カミングを受け入れ、ヤングは退任することになりました。交換条件のように「連邦政府に従う限り、ユタ戦争における反乱行為について信者たちを全面的に赦免する」という宣言が出されました。(1858年6月)
そして、連邦政府の統治権(知事や裁判所、連邦治安官)の復活というユタの民主化は、マウンテンメドウズ大虐殺の隠蔽が困難になることでもありました。生き残った幼児らはアーカンソーの親戚のもとへと送り返されました。証拠品の聞き取り調査も行われ、教団幹部を恐れて口を閉ざしていたモルモン、元モルモンも証言するようになりました。

ブリガム一行のご乱行

1859年5月に大虐殺の現場を訪れたのは、連邦政府軍のジェームズ・H・カールトン少佐(James H. Carleton)率いる部隊でした。120以上とも言われる虐殺による遺体は溝に投げ込まれたり簡単に土をかぶせられたりしただけであり、1年8ヶ月の歳月で無残にも地表に露出していたのでした。少佐は「見つかった頭蓋骨のほぼすべてに、至近距離から打ち込まれた銃弾の痕があった」と記録しています。また、噛みちぎられた衣服の切れ端が残され、多くが野生動物によって荒らされた痕跡を留めていました。少佐とその部隊は遺骨を全て拾い集め、現場に積み上げたケルン(石の塚)のもとに埋葬し、ようやく「正式な埋葬」が行われました。そして石碑には「ここには1857年9月初旬に無残にも殺害されたアーカンソー州からの120名の男女子供が眠る」と刻印しました。ケルンの頂部に大きな赤杉の十字架を立て、十字架には「Vengeance is mine. I will repay, saith the Lord(復讐するは我にあり、われこれに報いんと主は宣う)」(『ローマ人への手紙』12章19節あるいは申命記32章35節)と刻みました。神が必ずモルモン教徒に報いを与えるだろうというのです。
1861年5月に教団幹部(後に第4代大管長となるウィルフォード・ウッドラフら)を引き連れここを訪れたブリガム・ヤングは、連邦軍が残した慰霊碑と十字架の碑文を目にし激怒します。特に十字架に刻まれた言葉を、ヤングは呪いの言葉と受け取りました。彼がこう言ったとウッドラフは日記に残しています。
「『復讐は我にあり、そして私はその一部を果たした(Vengeance is mine, and I have taken a little)』と言うべきだ」

このヤングの言葉が意味するところは今も議論があるようです。十字架に刻まれていた聖書の言葉の主語「I」が「神」であることは間違いないのですが、ヤングの言葉は主語が神かヤング自身かが曖昧なのです。神であるなら「神は一部の復讐を執行した」となります。ヤングだとすれば「俺がしたことは今までモルモンが受けてきたことへの復讐の一部を行ったにすぎない」となります。おそらくはこちらの「主語ヤング説」が正しいでしょう。というのは、この言葉の後、一行は十字架を引き抜き、積み上げられたケルンを崩して平らにするという墓荒らしをしたからです。全く罰当たりなことです。

ここまでのまとめ

こうして世紀の大事件は解明に向かうのですが、またも困難が訪れます。南北戦争(1861〜1865年)が勃発し、それどころではなくなってしまうのです。南北戦争を超え、事件の解明にはなおも10年以上の歳月が必要でした。そのためには、より公正で厳格な判事の派遣、大陸横断鉄道のユタ州貫通による「世俗」の流入、何よりも連邦政府がユタとそこに繁栄するモルモンというカルトに関心を持つことが重要でした。はっきり言ってしまえば、ユタという僻地のカルト宗教に関わっている暇が当時の若きアメリカにはなかったということなのです。

この後の展開は別項で述べていこうと思います。

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