南北戦争勃発、棚上げされたマウンテンメドウズ大虐殺
南北戦争でのモルモン教団の立ち回り
マウンテンメドウズ虐殺現場の慰霊碑を荒らして意気を挙げた、ブリガム・ヤングとモルモン教団を助ける事態が発生しました。南北戦争の勃発です。
ヤングが慰霊碑を破壊した1861年5月は、まさに南北戦争(1861〜1865年)が始まった直後でした。ワシントンのリンカーン政権や連邦軍にとって、最大の優先事項は「国家の分断を防ぎ、南部同盟を倒すこと」でした。遠く離れたユタ準州の開拓地で起きた過去の虐殺事件や慰霊碑の損壊などを捜査・追及する余裕は完全に失われました。ヤングは機を逃さず、北軍(連邦政府)を表面上は支持し、電信線の防衛などのためにモルモン教徒の民兵組織を提供するなどの協力を示し恭順のポーズをとりました。連邦政府としても、西部での反乱を防ぎ、太平洋側との通信や流通を確保するためにヤングの強大な統治力を利用せざるを得ず、「棚上げ」としたのです。
しかし、南北戦争が終結すると、連邦政府の視線は再び西部へ、そしてモルモン教団に向けられるようになりました。連邦議会や東部の世論は、「奴隷制の次は一夫多妻制の撤廃だ」と叫び始めました。ヤング率いるユタの神権政治は、合衆国の法秩序を無視する「国家の中の国家」として再び問題視されます。
大陸横断鉄道の完成(1869年)
1869年にユタ州プロモントリー・サミットで大陸横断鉄道が開通しました。これにより、ユタの外部、東西から非モルモン教徒(鉱山技師、商人、ジャーナリストなど)が大量に流入するようになり、ユタの「閉ざされた王国」の独占的な支配体制に風穴が開き始めました。鉄道の開通や外部からの圧力が高まる中、教団内部の結束や隠蔽にも亀裂が入り出します。
内部告発と連邦法事案への本格捜査(1870年代初頭〜)
1870年代に入り、事件の凄惨さを記憶する元信者や関係者の口から「実は先住民だけでなく、地元のモルモン教徒指導者たちが主導して大量虐殺を行った」という具体的な内部告発や証言が少しずつ外に出てくるようになります。
また、ユタ準州に連邦政府から派遣された非モルモンの連邦検事や判事らが、ヤングの法を超えた権力を切り崩すべく、マウンテンメドウズの虐殺事件を法的に追及する攻勢を本格化させました。
真相究明の包囲網が狭まり、もはや「先住民のせい」で通し切ることが不可能だと悟ったヤングは、体制防衛のために動きます。古今何処の世界でもこういうケースで組織のすることは「トカゲの尻尾切り」と決まっています。
ふたつのトカゲの尻尾
1870年、ヤングは事件現場の最高指導者であったアイザック・ハイトやジョン・D・リーを教会から破門しました。教団公式の関与を否定し、「彼ら一部の過激分子が勝手に暴走して犯した罪である」として個人に罪を被せる作戦に出たのです。ふたつのトカゲの尻尾の行く末は分かれました。ハイトは教団の庇護のもとで生涯逃亡に成功し、死後教団から名誉回復までして貰います。それに対してリーは逮捕され公判の結果、死刑となります。リーは獄中でモルモン教の暗部を暴露する手記を残し、後世に一大貢献をしました。
ここで二人のプロフィールを見ておきましょう。
アイザック・C・ハイト(Isaac Chauncey Haight)
ハイトはジョセフ・スミスの護衛経験も持つノーヴォー時代からの古参信者でした。マウンテンメドウズの大虐殺の時、彼はシーダーシティ地域のステーク会長という地位にあり、地元民兵組織(ノーヴォー軍団第10連隊)の副連隊長(中佐)でもありました。あわせて初代シーダーシティ市長やユタ準州の議会議員も務めていました。実行隊長として現場に立ったリーとは異なり、後方で指揮する立場でした。
ユタ戦争の緊張が高まっていた1857年、彼は「我々の敵(異邦人)には徹底的に報復する」「神の敵には血の報復を」と集会で激しい演説を行い、排外感情を扇動していた過激分子でした。
キャラバン攻撃前の評議会において「攻撃に関してはヤングの指示を待つ」という議決を無視し、大虐殺を実行しました。
1870年にヤングに破門され、1874年には大陪審によって大逆罪などで起訴されます。しかし、ハイトは教団ネットワークの暗黙の庇護のもとで姿を消すことに成功します。母親の旧姓(ホートン)を名乗り、連邦政府の捜査が及びにくいアリゾナ準州やニューメキシコ、さらにはメキシコ国境近くのモルモンの潜伏開拓地(アウトポスト)を渡り歩きました。潜伏中も密かにしかも大胆に教団の資材輸送(セントジョージ神殿の建設資材の運搬など)を手伝い、1886年(73歳)にアリゾナ州サッチャー(Thatcher)で静かに病死しました。
ハイトは死刑執行されたリーと違い、「罪を告白する手記」などを一切残さず、口を閉ざしたまま墓場まで秘密を持っていきました。「余計なことを喋らなかった」功績で、死後の1900年、モルモン教会は彼に対する破門を取り消し、死後のバプテスマも行いました。この一事だけでもモルモン教団が反社会的集団であることが理解されるでしょう。
ジョン・D・リー(John・D.・Lee)
初期モルモンを代表する武闘派です。まさにヤング親分の舎弟で「泣く子も黙る」という形容が似合う血なまぐさい男でした。ノーヴォー時代からヤングのそばにいて秘書のようなことから汚れ仕事までなんでもやるヤングにとってはかわいいヤツでした。ヤングとは「神殿で結び固められた子」でした。また、ヤングの多妻の妻の姉妹がリーの多妻の妻でした。ですから義理の兄弟でもありました。血縁こそないものの、宗教的・家庭的には「ヤングの最側近の息子同然の存在」であり、まさに「ヤングの手足」として長年働いてきた人物でした。
教団での地位は決して高位ではありませんでしたが、影の最高意思決定機関「50人委員会(Council of Fifty)」のメンバーでした。教団全体の中央幹部としては中堅〜上位の実務派リーダーという立ち位置です。
リーもハイト同様、逮捕を逃れようとし、4〜5年は潜伏に成功します。
ヤングからの指示もあり、リーはユタ準州の南端、コロラド川沿いの非常に僻地であった「パレア(Pahreah)」や、後に彼の名に因んで「リー・フェリー(Lee's Ferry)」と呼ばれる絶壁に囲まれた川の渡し場へ家族と共に隠れ住みました。彼は渡し船を運航するなどの生活を送っており、潜伏していたというよりも「連邦法官吏の手が届きにくい荒野の僻地」で人知れず生活していたのでした。
リーには家族の面倒を見なければならないという思いとヤングは見捨てはしないだろうという甘い期待を持っていたようで、それがあだになりました。
1874年11月8日、連邦保安官が自宅に踏み込み、鶏小屋の藁の中に隠れていたリーを発見しました。この時、リーの息子たちが連邦保安官に向けて銃口を向けました。しかし間一髪、副保安官がリーの頭部に銃口を突きつけて「動くな」と叫び、一同は抵抗を諦めました。本当に西部劇映画の世界だったのです。ここにリーの逃亡は終わりました。
リーの裁判での態度は、最初こそ教団とヤングへの忠誠を信じて沈黙を守っていましたが、第2回公判で仲間たちに裏切られてトカゲの尻尾にされたことを悟ると、絶望と怒りの中で死刑の判決を受け入れました。
これにはモルモン教徒の陪審員が教団の責任を回避するように努め、リー個人の犯行へと法廷を誘導したことも忘れてはなりません。リーは決定的に裏切られたのです。刑の執行を待つ間、獄中で彼が書いた手記(『Mormonism Unveiled』:原題:Mormonism Unveiled; or, The Life and Confessions of the Late Mormon Bishop, John D. Lee)は後世の貴重な資料となります。
リーの死刑執行とその後
ジョン・D・リーの死刑執行
1877年3月23日、犯行の地マウンテンメドウズでリーの死刑が執行されることとなりました。ユタでは「絞首刑」「斬首刑」「銃殺刑」を選択することができました。リーは「血の贖罪」に基づく銃殺刑を選び、自らの血を大地に滴らせて、罪を償うこととしたのです。
現場にはリー自身の棺桶が運び込まれ、足元にあたる位置にリーは腰掛けました。
最後の言葉として「私は神とキリストの救いを今も信じているが、私を売り渡し、スケープゴート(身代わり)にして犠牲にしたブリガム・ヤングや教団幹部たちを非難する」「私は教団指導者の命令に従っただけなのに、彼らは自らの罪を逃れるために私を裏切った」と述べました。
そして、布で目隠しをされる際、保安官に対し、次のように叫びました。
"Let them shoot the balls through my heart! Don't let them mangle my body!"(弾は私の心臓を撃ち抜かせろ!私の顔や体を惨めに損壊させるな!)
リーは両腕を縛らないよう望み、両手を頭上に掲げて心臓の位置を露わにしました。連邦保安官ウィリアム・ネルソンの合図で5名の銃撃隊が一斉に発砲すると、リーの体は弾丸の衝撃でそのまま後ろの棺桶の中に倒れ込みました。
彼の血はマウンテンメドウズの地を染め、彼の最期の望みは叶えられたのでした。
ヤングの死
リーの処刑に関してブリガム・ヤングがどのような態度を取ったかは記録に残ってはいません。ヤングと教団は「狂信者らの暴発的犯行で教団は無関係」との立場であったので、沈黙するのは当然でした。そして巨魁ヤングにも人生の終わりが近づいていました。リーの処刑からわずか5ヶ月後の1877年8月29日にヤングは死去しています。
慰霊碑の悲運
前項「マウンテンメドウズの大虐殺」で最初の慰霊碑がブリガム・ヤングの乱行で破壊されたことを述べました。その後1864年に軍は碑を再建しますが、モルモン教徒が1870年頃に再び破壊しました。その後も何度か破壊と再建が繰り返されたため、1932年に「ユタ開拓者史跡協会」と地元の有志によって石塚の周囲を囲む頑丈な石造りの壁とブロンズの記念プレートが再建・設置されました。
しかし、陰湿にもモルモン教徒は事件現場や慰霊碑へ向かう道路の案内標識・道標を何度も撤去したり破壊したりしました。また、外部の観光客や訪問者が現地にたどり着けないよう、道路のメンテナンスを放置するなどの嫌がらせも行われました。それほどこの事件を「闇に葬りたい」「知らせたくない」という事だったのです。地元モルモン教徒の仕業ということになっていますが、モルモン教団はこれを黙認しました。
ヤングのみならずこういうことをするのがモルモンのスタンダードなのです。
歴史的和解へ
1990年9月15日、マウンテンメドウズの地において遺族団体(マウンテンメドウズ協会)、モルモン教団、地元自治体、先住民パイユート族らの協力により、犠牲者を追悼・記憶するための新しい記念碑(モニュメント)が建設され、その献堂式が開催されました。ようやく、歴史的和解が果たされたのです。実に133年越しのことでした。
この和解を果たせたのは当時のモルモン教会大管長が進歩的人物ゴードン・B・ヒンクレーであったからでしょう。
この奇跡のような和解はまた別の機会にお話しできればと思います。